人のことを考える余裕などない

そんな人間であれば、カッコよく振舞えるはずなどない。究極、自分に余裕が無い。まあ、大体の時において。

俗物的で申し訳ないが、金がありゃ、余裕が出来るんだろうなぁ、とかも思ったりする。メキシコにおる時、なんか訳の分からん余裕があったからな。女を普通に口説けた。今思えば吃驚仰天。スペイン語だからってのもあるだろうが。

スウェーデンかどっかの国で実験したらしいけれど、鬱病の人間に、自由な金を毎月ある程度与えると、鬱が改善するらしい。そんなもんだよ、人間は。金があれば、心も落ち着く。

その逆の、『貧すれば鈍する』、というのは、ここ2、3年ほどやって、身に染みてよく分かっている。人は、仙人以外は、霞を食っては生きられないので、貧すれば鈍するし、富すれば、鈍しない。非常に分かりやすい構造。ほんとは、可能ならば、霞を食って生きたいし、『武士は食わねど高楊枝』を地でいけるような人物となりたい。が、まあ、な。クズなので、無理そうである。

ただ別に、同情を誘いたいわけでもなんでもない。単に、何処かに、思いついたことを記録しておきたい。だったら、「チリ紙の裏にでも勝手に書いておけ!」という話であるが、『人に見せる』という前提があることが(喩え不特定多数の誰かであっても、或いは、誰も見ていないにしても)、文字を書く気にさせる。

最近明け方にばかりNotaを書いている。重々知りながらも、更に日々自分のクズ加減を改めて認識しつつ、されど他人を莫迦にして生きている。二重三重にクズとして。が、世の中に聖人君子なんているものか!とも思っているし、そう思うことで、自らを保とうともしている。

大体、書けば書くほど、品位は下がる。そもそも低位に屯っているのだから(屯田兵はたむろする)、どうということはないと言えば、どうということは無いが、『沈黙は金、雄弁は銀』というのは、正しいと思う。

姉家と実家でここんとこ過ごして思うところは、喋り方というか、食生活における考え方、表面的な価値観・感覚みたいなものは、かなり家族と似てるところがあるな、と思うものの、根本的な価値観はまるで異なっているな、というもの。

父親のほうが圧倒的に本を読んでいるのに、父親のほうが、実生活に希望を持っているというか、実生活を楽しんでいるというか、価値を見出している。まあ、正直端的に言えば、一般的・平均的な価値感覚と相違ないものを持って、日々を生きている。ほんと細かいことに楽しみを見出せているから、すげぇな、とも思う。

いつからそうなり始めたのか、萌芽を完全に特定することは難しいのだけれど、怠惰への言い訳もあり、自分は完全に深層的鬱病なので。マジでこの世にも人生にも意味は無いと思っているし、めんどくさいことは、たとえどんだけ社会的価値があろうとも、やりたくはない。一時期、誤魔化して奥深くにしまってはいたものの、これが完全に俺の価値観やら判断基準、生活様式みたいなものを彩っている。

デカダンというと言い過ぎだが、要するに、手っ取り早い快楽を求めて生きているだけ。あるいは、どでかい快楽を求めて生きているだけ。残念ながら、生物である都合上、死ぬのはなんだかよく分からんけど、理由なく、理性と別にして、怖くて、だから死ねないし、かと言って、七面倒な人生を真っ当にやり過ごそうなどという気は毛頭ない。

社会を自分で支配したいとは思うものの、社会のため・人のために役立ちたいなどとは、毛の先ほども思わない。「人の役に立ちたい!」とか平気で言えちゃう人も世の中にはいて、そいつらについて、「よくぞまあ、そんな法螺をしゃーしゃーと言う」と思っていたけれど、どうやら、世の中の割と多くの人は、「人の役に立ちたい」、「どちらかと言えば、人の役に立ったほうがいい」というぐらいには思っているようだ。

よく漫画や映画では、「この世を俺のものにしてやる!」という欲望まっしぐらな人間がいるけど、現実世界では終ぞ見たことがない。ま、いるのかもしれないけれど、単に人前で表明していないだけなのかもしれない。そういう欲が無いのに、そのような漫画や映画を見ているとすれば、その人は、その漫画や映画について、共感できているのだろうか?と訝しみたくなる。

「この世に意味が無い」とは思っているし言っているが、思考の次元を下げて、死ぬまで生きること、死ぬまで生きなきゃいけないことを前提とすれば、「この世を、この世界を俺のものにしたい」という欲を、自分は持っている。全てを支配したい。この全宇宙を。なんてったって、高校の時から、夢は「神になること」ですから。と、理屈づけをしてみることによって、発言の直接的責任を逃れようとする。

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